にのみやきんじろう二宮尊徳
天明七年、小田原在栢山村に生まれる。幼くして両親が病死したので学校の銅像みたいな感じで働きつつ学び、藩士服部家に奉公しながら独自の経営学を築いていく。やがて藩主大久保忠真に認められ、親戚の家政改革などを任せられた。
戦前の教科書にある勤労・倹約は尊徳仕法の第一段階に過ぎない。武士も百姓も生活の自己管理を徹底し、浮いた金をみんなから集めて基金を作り再生産に回す。出資者には必ず利子をつけて返すことで信頼が生まれ、物心両面から地域共同体の復活にいたる。普通対立物と思われている「金」と「道徳」・「個人」と「社会」を一体で捉えたのが二宮の独自性だった。
大久保家での仕法が評判となり各地から依頼が来る。天保の印旛沼干拓計画にも参加したが、構想が遠大すぎて水野に採用されなかった。そのほか尊徳一代の内ではうまくいかなかった事も多いのだが、生涯の試行錯誤から編み出された雛形(マニュアル)が弟子によって日本全国に広められた。
安政三年亡くなったが、各地の信用組合でその精神は生きている。
十四129-131,136,151
A・「日本の名著・二宮尊徳」(1970.中央公論社)・北島正元「水野忠邦」(1969.吉川弘文館人物叢書)
大久保忠真/渡辺崋山/水野忠邦/

目次へ戻る