たかはしえちぜんのかみ高橋重賢
長崎奉行
※通称は「三平」であるが釣りが好きだったという記録は発見できなかった。
宝暦八年生まれ。天文方の高橋さんとは無関係で、 吉宗時代に普請役として登用された五十俵くらいの家柄だった。寛政以降の北方危機のなかで、勘定方から蝦夷地御用に転じて頭角を現したのだ。
ゴローニン事件では当時病み上がりの体を押して事件解決に奔走し、見るもの感動せざるはなかったという。要するに人柄のいい近藤重蔵なのでどんどん出世した。 文政三年に佐渡奉行、同四年には松前奉行として松前藩復帰を処理し、翌年長崎奉行に赴任した。シーボルトが長崎で活動するにあたってはこの人のバックアップが不可欠であった。
文政九年に大草高好と交代してオランダ商館長の江戸参府といっしょに帰ってきたが、あの事件で連帯責任を問われたかなんだかで日光奉行に飛ばされる。現地で天保四年に没した。
※ゴローニン「日本幽囚記」では彼が異国人に好意的だった理由としてこう書いている。「彼があんなに立派な態度を示してくれたのは、彼自身が若い頃、運命に弄ばれて、 われわれと同じような災難に会ったためかもしれない。彼は松前藩に仕えていた。ある時、津軽海峡を渡航中に嵐が起こって、彼の乗った船は支那領の陸岸に流され、 全員嫌疑を受けて抑留された。彼らは六年間監禁されていたが、遂にこの件につき満足なる釈明を与えて、帰国の自由を得た」日本側の資料にこんな話はないのだが、誰に聞いたのか?
十三24-25,122-123
C・H・呉秀三「シーボルト先生3」(1968.平凡社東洋文庫)・ゴロヴニン「日本幽囚記(中)」(1943.岩波文庫)
高橋至時/ゴローニン/近藤重蔵

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