すずきはるのぶ穂積?
以前に文化庁が制作した伝統工芸ドキュメンタリーで、現代の浮世絵摺師さんがこんなことを語っていた。「浮世絵師なんてみんな謎だらけなんだよ。 春信が結婚してたのかとか、歌麿の作品が全部で何点あるのかもわからないんだよ。なんで写楽ばかり謎だ謎だって騒がれるのか、そっちのほうが謎だよ」まあそうなんですが、 とりあえずわかってる事だけ書いとこう。
春信は享保十年くらいに生まれた。鳥居派の影響下から出発し、宝暦ころより主に美人画でメキメキ売り出してくる。
明和期に入ると、江戸では富裕な武士・町人の間で絵暦交換会が流行した。今のコミケに例えられるかもしれないが、これが版画界の技術競争を生み、それまで筆で彩色していた (丹画)のが多色摺りを可能にした。このころ春信が大家だった神田白壁町の裏店に平賀源内もいたので、多色摺りは源内のサジェスションによるものとも言われている。 別に滝沢馬琴の随筆だと、版木師金六なるものが考案したと言う。蜀山人説では江見屋吉右衛門が延享元年からやっていたと言う。とにかくこの技術革新に基づいて春信は 「柳屋見立三美人」など数々の名画を発表した。パッと見で男と女が区別しにくい中性的描写、2原色アグファカラーみたいな色使い(まだ良い青絵の具がなかったから) などが特徴である。
経済的なことを言うと、多色摺りでは一枚の絵に何枚もの版木が必要になり、彫師の人件費も数倍になる。 どうやって安い労働力を大量に確保したかといえば、実は金に困っていた下級武士を動員したらしい。白河藩江戸詰め藩士までもがバイトしていたことが発覚しており、 定信の錦絵規制はそこらへんも理由にあったのかな。アシスタントの人件費問題は現代マンガ界でも続いているようですね。
内容的には「見立て」「やつし」 の概念によって絵に意味性を盛り込み、古典的教養をポップな表現に変換していった(吉原の玄関を羅生門にたとえるとか)という業績がある。 当人は浮世絵師と見られるのを嫌い大和絵師を自称し「下賎な役者絵は描かない」と宣言していた。だがアイドルは別腹らしく、水茶屋の娘「笠森おせん」 をたくさん描いている。
明和七年没。
四119,283-292
浅野秀剛・吉田伸之編「浮世絵を読む1・春信」(1998.朝日新聞社)・「浮世絵大事典」(2009.日外アソシエーツ)・「定本武江年表・中」(2003.ちくま学芸文庫)
平賀源内/司馬江漢/安藤広重

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