さかもとげんのすけ坂本俊貞
大坂町奉行所玉造組同心。父の坂本天山は和式砲術で一派を開き長州藩にも採用された傑物だった。俊貞は寛政三年生まれ、大塩平八郎と柴田勘兵衛の所で一緒に学んでいたが、 決起を鎮圧する側にまわり梅田源左衛門を撃ち倒すなど活躍する。その功で直参鉄砲方に取り立てられた。
坂本は平八郎へのスキャンダル捏造に対しては断固批判したが、 その思想を認めていたわけではなかった。彼に言わせると、大塩は町方与力だから町人たちが旦那芸をほめそやして御機嫌伺いをするのは当たり前だ。あいつはそこを勘違いして増長しやがった、 「天満流の我儘学問」だということになる。
友を裏切ったというので大阪市民には憎まれ、子供がみな祟りで死んだなどと噂を立てられたりした。しかし当人は意気軒昂、 嘉永六年に訪問してきた吉田松陰に和洋砲術の比較を論じ元気な所を見せている。万延元年九月没。
※雑誌「旧幕府」には坂本の長い手記が掲載されていて、 大塩が蜂起するとき当てにしていた勢力などが分かる。
※※実は島崎藤村の遠い親戚だったりする。
十四247,270,285-286
A・「旧幕府」(1971.原書房)・大塩事件研究会編「大塩平八郎の総合研究」(2011.和泉書院)・「吉田松陰日録」(2007.松風会) ・「江戸時代人づくり風土記20・長野」(1988.農文協)
大塩平八郎/大塩格之助/吉田松陰

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