ながのほうざん? | 長野確 |
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※通称は友太郎。号の豊山にはブザンというよみかたもあり。 天明三年に伊予国で生まれた。大坂で中井竹山に、ついで江戸に行って昌平坂の 「寛政の三博士」に学ぶ。定信一派による朱子学ルネッサンスに乗って世に出た感じである。伊勢神戸藩に採用されたが、敵を作りやすい性格で辞職、 ついで川越藩に行くがそこも辞職、松代藩などあちこちの客員教授をしていた。 彼は思想家としてより文章家として優れた人だった。 本場中国のアンソロジーに作品が収録されたのが評判になり、若き佐久間象山がかみついて名を挙げるにはうってつけの相手だったといえる。 いったい長野講義のどこがマチガイだったというのだろうか?乱暴にまとめれば、豊山の説明では、「孟子」には優れた人物なら学問することによって偉大になる、 と書いてあるという。これに対し象山は、すべての人間が学問で偉大になれるのでなくてはならない、と主張した。ささいな違いだと思うのだが、 学者はささいなことに血道をあげるもんだ。 豊山サイドが負けを認めるわけはないが、ともかく任期満了ということで江戸に帰った。そして天保八年に没した。 門人の一人が遠州中泉代官の林鶴梁で、彼は江戸に行って象山と対決して言い負かし、みごと恩師の仇をとったという。 | |
十九85-86 | |
「江戸文人辞典」(1996.東京堂出版)・松本健一「評伝佐久間象山・上」(1998.中公叢書)・大平喜間多「佐久間象山伝」(2013.宮帯出版社) | |
真田幸貫/中井竹山/松平定信 |