ほったいずのかみ堀田正虎
御主君、殿様
林子平の家系図によると伯父さんが腹を切る原因になった殿様だが、いったいなんであんな事になったのだろうか。
ワイド版5巻169ページで大老になった堀田正俊は何か誰かに恨みを買ったらしく、貞享元年に江戸城中で刺殺された。遺領のうち十万石は長男正仲が継いだものの、 古河から山形へさらに福島にとどんどん貧しい土地に飛ばされていった。どうやら政敵による追い討ちのようだ。次男の正虎は下野大宮二万石を分地されていたが、 元禄七年に兄の死で福島藩を継ぐ事になる。この時もとの二万石は没収されてしまった。
十万石の身分になったはいいけど実収入はずっと少ないので、 はじめから藩財政はピンチであった。さらに二万石分の家臣をリストラせねばならず、新井白石など多くが浪人になった。また幕府に忠実な堀田家は生類憐みの令を律儀に実行し、 領民に犠牲者が続出した。
この後、元禄十三年に山形へ戻され飢饉対策や土地改革に追われる。大坂城代に任命されるも享保十四年正月、旅中に伊勢で病死。 …こういう事情なら諫死の材料には事欠かないが、しかし時期的に考えると源五兵衛さんの失業(元文五年)よりも20年は前の事なのである。
年代的に妥当なのは二代後の相模守正亮であるが、この人は老中筆頭にまで出世し父祖の地佐倉に復帰を果たしたなかなかの名君だ。どうも良く分からんね。
四228
B・「新編物語藩史二」(1976.新人物往来社)
林子平/林源五兵衛/堀田正俊

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