ほったまさとし堀田正俊
寛永十一年、佐倉藩主堀田家の四男として生まれた。父の正盛は春日局の義理の孫で、家光の側近(衆道の仲だったとも言われる)として出世し老中に なった人。ワイド版三巻69-81ページの「合戦を知らない小姓たち」のどれかであろう。安中(のち古河など)に領地をもらい分家を立てたが、兄の正信が例の「佐倉騒動」 で取り潰されたので堀田家の跡取りということになる。
老中をやっていた時、家綱が危篤になった。大老の酒井忠清は京から宮将軍を迎えようと主張したが、 正俊はひとり綱吉を推し、病床の家綱に直訴して綱吉後継の意思を確認した。かくして酒井は失脚し、堀田が大老となった。…というのが通説だが実際は怪しい話のようだ。
とにかく大老になった正俊は、綱吉治世の初期を補佐する。ただの腰巾着ではなく、この時期は信賞必罰の政治で「天和の治」と賞賛されている。しかし貞享元年、 親戚の稲葉正休に江戸城内で刺殺された。公共工事を巡る対立とか、だんだん正俊がうっとうしくなってきた綱吉の密命とも言われる。
※林子平の伯父さんが仕えていた「堀田伊豆守」とは次男の正虎である。その後の堀田家はあちこち転封させられたあげく佐倉に戻り、幕末に正睦を出した。
※※ 白土三平「カムイ伝」第2部のクライマックスは堀田大老刺殺の場面になる予定だったが、なんか面白くならないという理由で中断している。
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A・B・深井雅海「日本近世の歴史3・綱吉と吉宗」(2012.吉川弘文館)・三田村鳶魚「御家騒動」(1997.中公文庫)・四方田犬彦「白土三平論」 (2013.ちくま文庫)
徳川綱吉/堀田伊豆守/林子平

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