くにさだちゅうじ長岡忠治
文化七年くらいに上州新田郡国定村で生まれた。天保五年に島村伊三郎を殺して名をあげる。上州一帯に数百人の勢力を誇ったが中風に倒れ、 嘉永三年十二月二十一日刑死。引導を渡した時の道中奉行は、のちに吉田松陰も裁いた池田頼方であった。義理堅い妾が遺体を盗み出して国定村に葬ってくれた。
天保飢饉で救民を行ったのは事実で、話を聴いた羽倉簡堂は「面熱、背汗縫入るべき地なきを恨むなり」と恥じ入っていた。死後に浪曲・小説・新国劇と人物像がふくらんでいき、 伊藤大輔監督「忠次旅日記」で時代劇というジャンルを確立させた。国立フィルムセンターはこの映画を復元するために存在しているようなものだ。
※あかんぼを背負っている子分は「板割の浅太郎」といって一応実在人物。「清水の頑鉄」はたぶん架空。
※※上州生まれの萩原朔太郎は、 昭和5年冬に実家から20キロ離れた国定村まで自転車で墓参りに行った。このとき「国定忠治の墓」という詩を書いている。

わがこの村に来りし時
上州の蠶(かいこ)すでに終りて
農家みな冬の閾を閉したり。
太陽は埃に暗く
悽而たる竹藪の影
人生の貧しき惨苦を感ずるなり。
見よ 此處に無用の石
路傍の笹の風に吹かれて
無頼の眠りたる墓は立てり。
ああ我れ故郷に低徊して
此所に思へることは寂しきかな。
久遠に輪廻を断絶するも
ああかの荒寥たる平野の中
日月我れを投げうつて去り
意志するものを亡び盡せり。
いかんぞ残生を新たにするも
冬の蕭條たる墓石の下に
汝はその認識をも無用とせむ。
十三47-51十四186-193十五121-123十六51-63,276十七51-63,276二十291-293
幕末一35八73
A・高橋敏「国定忠治」(2000.岩波新書)・「萩原朔太郎全集第二巻」(1976.筑摩書房)
水野忠邦/吉田松陰/清水の頑鉄

目次へ戻る