りゅうこう河辺隆長のち隆光
バカな坊主
慶安二年、大和の二条村に生まれた。母の死をきっかけに唐招提寺の小僧になる。唐招提寺は真言宗であるが、さらに各地をまわって南都系仏教や儒教・老荘思想なども広く学んだ。
貞享三年に徳川綱吉の招きで江戸に行き、筑波山知足院の住職として江戸城守護の祈祷僧を務めることになる。深い学識で綱吉の信任を得た隆光はやがて大僧正に出世し、 神田橋に護持院を新設してもらい関東真言宗の総本山とした。
彼は綱吉と母の桂昌院を言いくるめて、いわゆる「生類憐みの令」を発布させたとされている。 しかし動物愛護の政令が出始めたのは隆光が江戸に来た前年からであり、結局綱吉に跡継ぎが生まれずとも特に責任を問われてはない。お追従で「さすが上様すばらしい政策でございます」 くらいは言ったかも知れんが、少なくとも主犯じゃない。おおかた成功者への妬みから悪役にされ俗説が作られたのだろう。生類憐みの令はあくまで綱吉自身の儒教精神・ 理想主義から来た法律で、しかしそれが上からの押し付けという形をとってしまったので人民の反発をかったのだ。
隆光は護持院のほかにも東大寺・永代島弁天・ 熱田神宮・根来寺などの再興に力があったという。ただの俗物ではなかったようだが、世俗事への関心が強かったのは確かで、生涯書き続けた膨大な日記は元禄時代の貴重な研究資料となっている。
綱吉が死ぬと自分も引退し大和に帰り、享保九年に七十二歳で入寂した。その120年後、彼が作った護持院が火事で焼けた跡地で井上伝十郎が本庄茂平次を討った。
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A・深井雅海「日本近世の歴史3・綱吉と吉宗」(2012.吉川弘文館)・ 「日本仏教人名辞典」(1986.新人物往来社)
徳川綱吉/徳川家宣/井上伝十郎/本庄茂平次

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