ひのていさい日野鼎哉
※暁碧・蔭香などと号す。
寛政九年に豊後国徳野川原(今の湯布院あたり)に生まれる。近所の日出藩儒者で、当時九州において広瀬淡窓と並ぶ大学者だった帆足万里に学んだ。 万里先生には福沢百助や中津藩儒なども漢学を学んでおり、つまり諭吉は日野の甥弟子とでも言うべきところなのだ。
実証主義者の万里は蘭方医学に関心を持っていて、 日野など数人の弟子を長崎に送りシーボルトに学ばせた。このとき種痘の方法だけは知ったのである。
短躯痩身、シーボルト門下においてアクのつよさは長英と並び、 人のミスを見つければ責めたてることに仮借なかった。恩師が七十になって脱藩してきた時はあいさつもそこそこに二日二晩ぶっ続けで議論し、二人とも死にそうになった。 相手のトシを考えろ。
鳴滝塾がつぶれたあと京都に引っ越して(カタクナな性格で、なにか故郷にいられないような事をしでかしたらしい) 開業した鼎哉は名声を確立し、弟子の笠原良策を通じて痘苗輸入を福井藩に働きかけていた。そこへ佐賀藩からモーニケ苗が贈られて来て、さっそく息子たちに接種して増やし、 嘉永二年に京都で除痘館を設立。これ自体は土地柄とか日野の性格的問題でうまくいかなかったが、各地に分け与えた痘苗はおおいに増殖し役立ったのであった。
嘉永三年に没。若死にとも言えるが、長生きしててもその後京都は攘夷テロの嵐が吹き荒れるから、あるいは死に上手だったかも知れない。
十四16-17二十148-149
A・呉秀三「シーボルト先生3」(1968.平凡社東洋文庫)・帆足図南次「帆足万里」(1966.吉川弘文館)
福沢百助/広瀬淡窓

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