せきすいどう関重嶷
上州伊勢崎藩家老関睡峒の家の主人
宝暦六年生まれ。実は浅間山噴火の時まだ家老になっていなかったが、父と共にすぐ救助活動を行い賞賛された。このため天明打ちこわし騒動でも 伊勢崎は被害を受けていない。
家老職を継ぐと財政再建に乗り出し、歳入に合わせて予算を組む(あたりまえの事みたいだが昔の大名はそんなこともしてなかった)など 色々やってみた。その一方で伊勢崎藩は領民教育にも力を注ぎ、二万石そこらで二十五の郷校が建設された。おかげで藩財政は好転しなかった。著書に「沙降記」 「伊勢崎風土記」など。天保七年没。
新田義貞家来の先祖というのは、太平記の巻十四に見える篠塚伊賀守(八十万の敵を五百で突破したとか)。でもまあ田沼意次 でも国定忠治でも、先祖が群馬に住んでたらみな新田武士団ということにされている。
七206-225
「日本人名大事典3」(1979.平凡社)「群馬県史・通史篇(4)(6)」(1992.群馬県史刊行会)・野間光辰「日本の旅人7・高山彦九郎」(1974.淡交社) ・山崎正和訳「太平記」(1990.河出書房新社)
高山彦九郎

目次へ戻る