じゃがたらおはる
お春という少女が長崎の筑後町(現・玉園町)あたりに住んでいたのは確からしい。ポルトガル船の水先案内人だったニコラス・マリンなるイタリア人が父で、 母は洗礼名マリヤという日本人。自身すでにジェロニマという名で洗礼を受けていたので、寛永十三年(島原の乱の前年)の第四次鎖国令で、 まだ十四歳くらいで国外追放されてしまったのは記録に残っている。
この人が流されたインドネシアのバタヴィアから送ってきた手紙というのが、 元禄時代になってから西川如見『長崎夜話草』で紹介された。「千はやふる、神無月とよ、うらめしの嵐や、まだ宵月の、空も心もうちくもり〜」 てな調子で苦しい異境から祖国への慕情を切々と記したこの”じゃがたら文”は大評判となり、読んで泣かない奴は人間ではないとまで言われた。
だがすでに大槻玄沢などは、 十四で日本を出た女にこんな擬古文が書けるのかと疑っていた。長崎で現地調査したが現物は見つからず、西川の偽作であると断定している。でも一般大衆は泣ければいいので、 その後も悲劇的伝説はどんどんふくらんでいき、ご当地ソングになるは菓子になるは焼酎になるは、そういえば「暗黒大陸じゃがたら」なんてロックバンドもあったり。
ジャカルタの国立文書館でお春の遺言書が発見されたのは昭和十四年に至ってのことである。じつは当時ジャカルタは嫁不足だったので日本から来た女は大歓迎、 お春さんもシモン・シモンセンという貿易商と結婚しいっぱしのマダムとなり、お屋敷に住み奴隷を使い七人の子を産み、1697年に多額の遺産を残して72歳で大往生したのだった。
長崎通詞の家にあった本物のお春の手紙を見るに、シモン夫人は別に日本に未練などなく、新天地で充実した自分自身の人生を送っていたようである。お春ちゃんかわいそう伝説とは、 日本が世界一素晴らしい国であるはずだという本土人のナショナリズムの裏返しではないだろうか。
幕末二十八74
A・白石広子「じゃがたらお春の消息」(2011.勉誠出版)
大槻玄沢

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