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風雲児たちには出てこないけどやっぱりこいつらも風雲児たち事典

セコイア(1770ころ-1843)

「風雲児たち」や司馬遼太郎の小説などを漫然と読んでいると、なんだか有色人種の中で日本民族だけが優秀で創造的みたいに錯覚してしまうが、もちろんそんなことはないのである。いろんな国のいろんな時代に立派な志士や発明家がいて、白人どもの侵略に対抗していたのだ。まだ彼らのために各国版の「風雲児たち」が描かれていないだけのことである。

北米アパラチア山脈南部に先住していたチェロキー族は早くから植民白人の文化を吸収する機会があり、英語を学んだり農場を経営したりしていた。そのなかに学校へは行ってないが頭がよく手先が器用なセコイア(シークァイア)という子供がいた。ジョージ・ガス(ガイスト)という別名もあり、白人との混血という話もある。暮らしぶりは100パーセント先住民であり、長じて銀細工の職人になったものの、白人のインディアン差別には怒りを禁じえなかった。

どうして奴らは俺たちをバカにするのか?、「モジ」を持ってないからだ。じゃあ「モジ」というのを作ってみよう。

セコイアは1809年くらいから本や新聞のキレッパシを参考に新しい文字を作りはじめ、1821年までには86字からなる「チェロキー文字」を完成させた(シーボルトが日本に行ったころ)。日本のカナ文字などと同じ、一字で一音節をあらわす方式で、チェロキー語をすべて表現できるものであった。たちまちこれが仲間うちに広まった。

数年のうちにチェロキーの識字率はほぼ100%となり、チェロキー新聞が発行されチェロキー憲法が発布された。近所のクリーク族やチョクトー族にも文字の作り方を教え、アメリカ先住民の大同団結を訴えるまでになった。日本の場合、明治の近代化は江戸時代数百年の蓄積があってこそだったと定説化しているが、あっちはだいたいゼロから数十年でここまでやったのだぜ。

チェロキーの爆発的進化に恐れをなした合衆国政府はありとあらゆる手段でつぶしにかかった。卑劣な謀略で内部分裂を誘い、生まれた土地から強制移住させ14000人のうち4000人を殺した(ワイド版14巻に描かれていたあれがこれ)。

セコイアは1843年に亡くなったといわれる(水野忠邦が失脚したころ)。今やチェロキーの末裔でもチェロキー文字を使えるものはすくないが、赤い風雲児の名は杉の木の名前となって永遠に不滅である。

※参考文献
西江雅之「伝説のアメリカン・ヒーロー」(2000.岩波書店)
永田悦夫「新アメリカ物語Ⅱ」(2005.文光祥出版)

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