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只野真葛(宝暦十三-文政八)

「赤蝦夷風説考」の工藤平助には、あんな顔して綾子という娘さんがいた。ワイド版4~9巻あたりの登場人物ほぼ全員が、 入れ替わり立ち代り工藤家に来て家庭教師してくれたので、とても賢いお子さんになった。
とうぜん結婚適齢期になってあちこちから縁談が来たが、 父は田沼意次に蝦夷奉行にしてもらえると思っていたので欲を出し全部断ってしまう。
「お父さん、私はやくお嫁に行きたいわ」
「まあ焦るな。 わしが蝦夷奉行になれば公家でも大名でもヨリドリミドリじゃい」

そうこうしてる内に田沼は失脚してしまい、平助は奉行どころか山師扱いされるは家は火事で焼けるはの転落人生。娘の縁談もパッタリ途絶え、 ようやく二十七で年寄りの男に嫁いだが、すぐに出戻ってしまった。無駄に高学歴でプライドの高いバツイチ年増がこれからどうすればよいのか?
「おまえももう三十路なんだから落ち着いてくれよう」
「好きで年を取ったんじゃないわよう。父さんのせいでしょっ」

捨てる神あれば拾う神あり。平助を尊敬していた仙台藩中新田領主の只野伊賀という人が、綾子を後妻として引き取ってくれることになった。 なんかしらんがすげえいい人で、「自分が参勤交代で江戸に行っている間は自由に書き物でもしていてください」と言ってくれた。これ以後綾子は生涯を仙台の山郷で過ごし、 真葛のペンネームを用い旅行記や民話集を執筆した。ここから後世「只野真葛」と呼ばれるようになったのである。

仙台藩では林子平の言う事を聞かなかったためひどい有様になり、寛政時代にはあちこちで藩を揺るがす大一揆が起きたが、只野家の加美郡中新田は無事だったようだ。
またツルと酒好きな真葛が作らせた地酒(庄内杜氏・山廃仕込み)は藩主から「真鶴」の銘をいただき、いまでも製造販売されている。 地方行政官として中々優秀だったことがうかがえるのである。

晩年になって彼女の人生観をまとめた「独考(ひとりかんがへ)」はそのラディカルな内容で日本フェミニズム史上に残るものである。
「男と女って結局○○○と×××のぶつかりあいよね」
「若い娘が流行を追わないでどうするの。神妙にしてたってジジイにほめられるだけ」
「世の中の動きにはリズムがあって、正しい人でもタイミングが合わなければ失敗する。悪い奴でもタイミングが合えば繁栄する。私は少し早すぎた」
これを出版してもらおうとして江戸の滝沢馬琴に送ったらすげえ怒られた 。まあ当たり前か。
真葛は文政八年に亡くなった。享年六十三。昔から国学者・歌人としてそこそこ有名だったが、昭和になってから江戸のジャンヌ・ダルクとまで言われるようになった。

※参考文献
「叢書江戸文庫30・只野真葛集」(1994.国書刊行会)
「新編物語藩史第一巻」(1975.新人物往来社)

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