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風雲児たちには出てこないけどやっぱりこいつらも風雲児たち事典

賀茂真淵(元禄十-明和六)

作中には一度も顔を見せなかったが、ワイド版4巻で前野良沢が江戸に戻ってくるまでの数十年間、江戸知識人界の中心にあって、その後でて来た多くの風雲児たちの人生に影響を与えたのが真淵である。

生まれは遠州浜松東伊場の郷士の家、本姓は岡部氏、京都賀茂神社の禰宜の末流のそのまた東の分家だという。承久の乱で勤皇方だった先祖はいろいろあって遠州に流れてきたらしい。 いくら家系が古くたって時代は貨幣経済、遠州賀茂神社の経営は苦しくなる一方で、幼い真淵は現代社会への敵意と古代への憧れをなんとなく心に刻んでいた。
地元の歌会などでぼちぼち頭角を現した真淵は、一度は本陣宿の養子になったりしたが文学の夢捨てがたく、手習いの先生が当時の歌道の大家・荷田在満の一族だったので、 そのツテを頼って元文二年に江戸へでた。
真淵は大岡越前の与力で加藤枝直という人の地所を借りることにした。加藤さんは学問好きで若き日の青木昆陽も世話しており、 三人は同じ釜のイモを食い切磋琢磨したのだった。

徳川吉宗の次男の田安宗武は国学・歌道において一家をなす人だったが、その裏には公家と接触する口実を作り朝廷から将軍に推薦してもらいたい下心があったらしい。 宗武はお抱え学者の荷田在満に「和歌を学ぶと政治にも役立つよな?」と話を振ってみた。しかし空気の読めない在満は「いえ文学と政治は別物です」とバカ正直に答えた。 怒った宗武は次に真淵に諮問した。真淵は空気が読めたので「はいはい和歌は政治にも役立ちますよ、それだけじゃないですけどね」と上申した。
在満は自説の誤りを認め、いさぎよく引退し田安家和学御用のポストを真淵に譲ったのでした。……という風に伝記には書いてあるが、客観的に見れば恩ある先輩を蹴落とした形である。 ともあれ定職を得た真淵はライフワークの万葉集研究に取りかかれるようになった。浜町の自宅を「県居」と名付けたので真淵一派は県門学派と呼ばれるようになった。

真山青果の説によれば、このゴタゴタの際、林子平の父親は荷田派に属していて、そのため江戸を追われることになったらしい。そうであれば子平と松平定信は親の代から因縁があったわけだ。
失業した子平の父は佐原にやって来て、伊能魚彦に真淵の悪口をさんざん言い立てた 。伊能はかえって真淵国学に興味を持ち、ついには江戸に行って入門し、 県居四天王の一人にまでなった (残り三人は加藤千蔭・村田春海・加藤宇万伎)という。

宝暦十三年、真淵は念願の伊勢参りに行った。帰路で松坂に一泊した折、地元の国学好きな若者が面会を申し込んできたので会って少し話してやった。これが後年「松坂の一夜」 として国学史上の一大事件のごとく言われたのだが、真淵本人が本居宣長を後継者だと言った事などなく、県居門流の正統を継いだのは江戸の伊能魚彦たち四天王である。

それまでも個別にあった和歌の評釈や文法研究を、真淵は「言語研究から思想を紡ぎ出す」という徂徠学の方法論で統合し、「古代日本人の精神がどのようなものだったか、 それはどのようにして現代に再生されるか」というひとつの哲学体系めいたものにした。しかも社会的地位を承認されたというのが重要な事であった。
「罪深きは人を殺せしより大なるはなかるべし。然るに今より先の世大に乱れて、年月みないくさして人を殺せり。其時一人も殺さで有しは今のただ人共也。 人を少し殺せしは今の旗本さぶらひと云。今少し多くころせしは大名と成ぬ。又其世に多く殺せしは一国の主となりぬ。さて是をかぎりなく殺せしは、公方と申して世々さかへり」
幕藩封建体制の解体期にあって現代社会を未来から批判したのが蘭学、過去から批判したのが国学であって、両者は対立項というより一卵性双生児と考えられる。 前野良沢を保護した奥平昌鹿は賀茂真淵の門人でもあったのである。

※参考文献
「近世文学研究事典」(2006.おうふう)
「新編林子平全集」第五巻(1980.第一書房)
寺田泰政「賀茂真淵」(1979.浜松史跡調査検証会)
三枝康高「賀茂真淵」(1962.吉川弘文館人物叢書)
「国学者伝記集成」(明37刊.1997復刻.東出版)

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