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風雲児たちには出てこないけどやっぱりこいつらも風雲児たち事典

カール・リンネ(1707-1778)

18世紀は理性の時代。日本でも西洋でも庶民の知識欲は爆発的に増大し、図鑑・辞典・啓蒙書の類が飛ぶように売れ、つまり学問が商売として成立するようになった。 平賀源内もシーボルトもこういう前提でこそフリー身分での活躍が可能になったのだが、日本と西洋で科学力に差がついたとすればどこからだろう。
日本の本草学は美学的には西洋にも負けない図鑑をいろいろ作っていたが、それは個々の物知りヒマ人が自己流のやりかたで研究していたので、分類基準も用語もバラバラ、 データの同期ができない。たとえば学者Aが西日本で1000種の植物を「発見」し学者Bが東日本で500種を「発見」したとして、全日本の植物が合計1500種ということにはならない。 ダブりがいくつあるかわからないのだ。たとえ何千種発見しても個別事例の収集にとどまり「だから結局どうなんだ」というテーマは出てこない。
一方ヨーロッパにはリンネという巨人がいて、博物学界に統一と発展をもたらし専門外にまで影響を与えた。この人がいるといないとで「風雲児たち」のストーリーも大きく変わっただろう。

カールはスウェーデンのステーンブルーフルトで園芸好きな牧師の家に生まれた。ただ教会にお参りするだけでなく各自が主体的に神の恩寵を証明し神の意思を実現しようというのがプロテスタントの教義である。 隣町ヴェクシーのギムナジウムで本格的に植物学と生理学を学び、オランダに留学するなどしてしだいに独自の方法論を固め、 1735年に「自然の体系」初版を刊行した。ここで発想され第10版(1958-1959)で確立した二語式命名法による生物体系が歴史を動かしたのである。

生物の「種」を具体的な身体特徴により決定しラテン語で命名、さらに共通項の多いものからくくって「属」を作る。そこから「科」「目」「綱」「門」と積み上げていく。 今から見れば当たり前のようだが、これで理論的には全宇宙の動植物を一つのピラミッドに収納できるはずである。
世界中の学者がリンネ式分類法に従う事で知識を共有し、 研究を一つの方向にまとめて進んでいくことができる。アリストテレスのような天才博識でなくても、アマチュアが本業の合間に1種類ずつ研究して学会に貢献できる。
リンネ一派の最終目標は地球上すべての動植物を分類命名することで、弟子たちが手分けして世界各地の調査におもむいた。クック船長の探検もツンベリーの来日もその一環だったし、 その延長上でクルーゼンシュテルンの世界一周やシーボルトの来日もあった。

リンネ自身は敬虔なプロテスタントで、神による世界創造の完璧さを証明するために構想したモデルだった。しかしこの生物系統図を虚心に眺めれば 「すべての生物はもともとアメーバみたいなものだったのではないか?」というアイデアが出てくるのは必然であった。 100年後には進化論が出現してキリスト教的世界観を覆してしまった。

フランスにおいて最も熱烈なリンネ信奉者はジャン・ジャック・ルソーであった。 生物学的には王様も平民も同じヒト、身分貧富の差は本質でない。フランス革命を支える思想としてリンネは大衆に愛読された。

リンネは1762年に貴族となり、1778年に亡くなった(ワイド版6巻、大槻玄沢が江戸に来たあたり)。ウプサラ大学教授の座は息子の小リンネ、 次にツンベリーが継ぐ。彼の分類法は後進に修正されながら現代生物学に移っていくのである。

※参考文献
西村三郎「文明の中の博物学上・下」(1999.紀伊国屋書店)

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