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ラ・ペルーズ(1741-1788?)

時に西暦1785年、日本では天明五年、田沼意次の送り込んだ調査隊が蝦夷地を探検していた頃、フランスからも極東へと向かう2隻のフリゲート艦があった。 ラ・ペルーズ伯爵率いる太平洋探検隊である。

ジャン=フランソワ・ド・ガロープ・ド・ラ・ペルーズは南西フランスの貴族の子として生まれた。 15の時にはすでに船上にあり、仏海軍士官となって七年戦争で歴戦の勇士となる。ハドソン湾のイギリス要塞を攻略するなど数々の武勲をたて、40そこらで海軍大臣になった。
国王ルイ16世は即断を求めなければなかなか長期的な視野を持った知識人で、海事にも造詣が深かった。イギリスがクック船長にやらせた南太平洋探検に刺激され、 こっちは北太平洋を調査しようと企てたのだ。
「ブッソル号」「アストロラブ号」に数学者・地理学者・天文学者など百数十人を乗せて探検隊は出発した。 レッツゴージャン君。

まず大西洋を横断してホーン岬をまわり太平洋に出て、イースター島・ハワイに立ち寄り、 それから北米西海岸を調査する。その途中で発見した島をネッケル島(当時の大蔵大臣にちなむ)と命名した。
ここまでの航海で特筆されるのは、 当時の基準では病人が非常に少なかった事で、これは隊長が食事や衛生に気を遣っていたからだ。またラ・ペルーズは発見した土地をフランス領にしようとはしなかった。
「大砲や銃剣を持っているからといって、ただそれだけで、六万の原住民とその同類たちを無にひとしいものとみなす、ヨーロッパの人間たちを見たら、 啓蒙思想家たちはおそらく嘆き悲しむことだろう」
フランス革命を引き起こした啓蒙思想を、そのころ貴族ですら共有していたのだった。

1787年になって、 探検隊はベーリング海からアジア大陸北東をめざし、マニラ・台湾経由で日本海に入り込んだ。当時ヨーロッパでは日本をすごい大帝国と思い込んでいて、 特に手土産もないので立ち寄るのは遠慮したようだ。遠慮せずに立ち寄ってくれてれば、「海国兵談」発表とカチ合って林子平は一躍時の人になっていただろうに、 惜しい事であった。
南樺太に停泊したとき、地元アイヌからここが島であることを聞いた。しかし水深が浅くて船が座礁しそうなので海峡の確認はあきらめた。 この時おっくうがらずに海岸を歩いていけば、今ごろ間宮海峡はマリー・アントワネット海峡とかオスカル海峡とかいう地名になっていたはずである。またも惜しいところだ。
一行は宗谷海峡を抜けて太平洋に戻り、このため国際的にはここがラ・ペルーズ海峡と呼ばれている。どうせなら津軽海峡を通れば、ちょうどそのころ最上徳内は野辺地で雌伏していたのだから、 出会ってなにか有意義な対話がなされたかもしれない。またまた惜しいところだった。

そのあと探検隊はカムチャツカに寄港した。1787年9月29日に出航したが、 光太夫とニビジモフ一行が手作りの船でたどり着いたのはほとんど入れ違いだった。もちょっと滞在を伸ばしていれば、話をつけてそのまま日本へ乗せてってもらえたかも知れず、 まったく次から次へと惜しいところであった。

そのあとラ・ペルーズはオーストラリアに転進し本国へ報告を送り、それからニューギニア方面の調査に向かい、 そのまま消息を絶った。
フランスは大騒ぎになって捜索隊を出したが、行方は杳として知れない。ルイ16世は最後までラ・ペルーズ探検隊の消息を案じつつ処刑された。
サンタクローズ諸島・ヴァニコロ島沖の海底で、嵐で沈んだらしい2隻の残骸が発見されたのは、実に1960年代になってからである。

ラ・ペルーズたちの冒険譚に胸躍らせたフランスの子供たちの中にジュール・ヴェルヌがいて、大人になって科学冒険小説家になり、その作品は明治日本人の開化思想に影響を与え、 今も「ふしぎの海のナディア」などのアニメになったりしている。ついに探検隊は日本に到達したのだ。

※参考文献
ジュール・ヴェルヌ「ラ・ペルーズの大航海」(1997.NTT出版)
ベルナール=ヴァンサン「世界の傑物3・ルイ16世」(2010.祥伝社)
「大黒屋光太夫史料集全4巻」(2003.日本評論社)

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