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風雲児たちには出てこないけどやっぱりこいつらも風雲児たち事典

海保青陵(宝暦五-文化十四)

大黒屋光太夫に日本を代表する学者と言われた桂川家四代目甫周には竹馬の友がいた。彼が儒学を学んでいた尾張藩儒・角田青渓の息子、皐鶴(通称は儀平)である。ふたりは良く議論をしていたが、いつも皐鶴のほうが言い負かされていた。

ある日、甫周は儀平に一つの目貫(刀の柄を固定する部品)を見せた。
「これは秋元但馬という人の作品で、とても良いものだ」
「そんな人知らないけど、有名な職人なの?」
「ただの大名の余技だが、でも後藤祐乗(目貫の最高級ブランド)より値打ちがあるのだ」
「一体どういうことなんだい?僕には分からないよ」
「そんなことも分からないのか。きみはほんとうにバカだな」
くやしいので儀平は一生懸命考えて、ついに自分なりの結論を得た。
「物の価値はブランドじゃなくて、物自体の出来にあるということかい?」
「おお、よく気がついたな。その調子で何でも自分の頭で考えていけば、バカの病も治るべし」

甫周先生も意外と毒舌家だったんですねえ。しかしこのとき、己が倒幕の導火線に火をつけてしまったとは思いもよらなかっただろう。

成長した儀平は曽祖父の姓に復して「海保」を称し(特に深い理由はないが、こっちのほうがミヤビな感じだから――本人談) 父の旧主・丹後宮津藩青山家にちなんで「青陵」と号した。徂徠学に始まって老子や韓非子などあらゆる流派を学びつつ、そのどれでもない自分自身の思想を形成していった。
「鶴ハ唯文章ズキニテ、何派ノ学問ナドトイフコト大キニキラヒ也。ワカキトキカラ何派ノ学問ニテモナシ。即、鶴ガ一家ノ学也。」

父の縁で宮津藩に数年勤めて武家政治の現状を見、さらに日本中をまわって社会経済の実態を観察した。「己レガ足デ一里アユメバ、一里ノ所へ行テ居ルナリ」 東海道を往来する事10回、登った山は大小数百、やがて京都に腰を落ち着けて「稽古談」「陰陽談」「新墾談」などの著作をまとめた。 これらはすべて青陵がその目で見た事実に基づく(反面として国際問題はほとんど出てこない。海外には行った事ないから)、アクチュアルで独自な社会経済論であった。

彼の経済学は朱子学的道徳論を吹っ切っていた点・実現への具体的プロセスを提示していた点で工藤平助や本多利明より突き抜けていた。
「学問ガハヤレバ国ガ富ム。如何ナル訳デ富ムヤラ六ヶ敷コトナリ。民ガ孝悌忠信二ナレバ国ガ富ム。何ノ訳デ富ムヤラ六ヶ敷コト也。上ガ下ヲ愛スレバ国ガ富ム。 ドウ云訳カ知レヌ也。」
昔の偉人が言ったことでも現代の問題を解決できなければ無意味である。今、諸藩がやるべきことは商業を研究し産業を開発する事であろう。 国家とは土地を元手にした商売であり、国を富ませるのが政治家の仕事なのである。
「一日懐ロ手ヲシテ居レバ、銭一文モ取レヌナリ。一日働ケバ二百カ三百ハトレル也。 是六ヶ敷コトモ、解シニクキコトモ、空ナルコトモナウテ、至極ヨウ聞コへタルコトナリ。」

青陵の思想は斬新過ぎて同時代には受け入れられなかった。彼に学んだ加賀藩の寺島蔵人は文政時代に藩政改革を試みたが、守旧派によって流罪にされてしまった。しかし長州の村田清風が天保改革を始めたときには時代が追いついていた。青陵の著作にヒントを得たという商業振興政策は大成功し、実質百万石の力を蓄えた長州藩はついに幕府を打倒したのだった。

※参考文献
「日本思想大系・本多利明・海保青陵」(1976.岩波書店)

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