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ジョナス・ハンウェイ(1712-1786)

第二次大戦中ウィンストン・チャーチルは「弾薬の補給より茶の補給が大事である」とのたまい、ロンドン大空襲のさなかでも多数のお茶くみ部隊が被災者に茶を配っていた。 午後ティーのためなら麻薬密輸に侵略戦争となんでもやる紅茶ジャンキー大英帝国。しかしこの狂気の歴史を変えられたかもしれない男が一人いた。

ジョナスは1712年に生まれた。早くして父を失ったが独学して貿易会社を起業し、世界中を回って巨万の富を得た。だが学問にも熱心なジョナスはそれだけで満足しなかった。
18世紀ころまでのイギリスは山賊海賊の寄せ集め、島国根性のバブル成金であった。どっかの国の農協よろしくヨーロッパ大陸にゾロゾロ団体ツアーに行って馬鹿にされたりしていた。 ジョナスは貿易に行った諸国から新技術・新思想を次々と輸入して、独力で英国の文明開化を図ったのである。

英語で「ハンウェイ」といえば傘の代名詞である。 当時は傘といったら日傘、それも女のさす物であった。雨が降れば男どもはみなビショヌレで出歩いていた。ジョナスはコウモリ傘をさしてロンドンの路上を堂々と闊歩し、 人々に笑われながら30年これを続け、ついに雨傘を一般常識とすることに成功したのだ。
さらに彼は全粒粉のパンとロンドン街路の統一舗装を提唱し、 黒人奴隷の救済団体を作り、マリン・ソサエティやファウンドリング病院を創設し、煙突掃除人の悲惨な健康状態の改善に努めるなどした。 その中で特に注目されるのが反茶運動であった。

1756年に出版した「ポーツマスからキングストンまで八日間の旅の記録」で付録された「茶論」において、 ジョナスは飲茶が健康に有害であり、産業を妨害し、国を貧困にする、とりわけ女性の美容の敵であると主張した。「彼女たちの食生活を変えさせ、とくに喫茶をやめさせれば、 おそらくは大多数が健康を取り戻すだろう」
当時のイギリスを代表する知識人であったサミュエル・ジョンソンは既に救いがたいタンニン依存症に犯されており、 ハンウェイに猛烈に反論した。喫茶の悪習を廃絶できないままジョナスは1786年なくなった。

その後イギリス人は前にも増してガバガバと茶を飲みまくり、 対中貿易赤字が膨れ上がり、それを解決するためアヘン戦争をふっかけ、あまりの外道行為に尚歯会のみんなは仰天し、蛮社の獄とか明治維新の原因となり、 明治新政府は富国強兵につっぱしり、ついにはマレー沖でプリンス・オブ・ウェールズとレパルスが海の藻屑になった。あの世でハンウェイさんは 「わしのいうことを聞かなんだからじゃわ」と嘆いた事だろう。

※参考文献
ヴィクター・H・メア&アーリン・ホー「お茶の歴史」(2010.河出書房新社)
W・H・ユンカース「ロマンス・オブ・ティー」(2007.八坂書房)
T・S・クロフォード「アンブレラ」(2002.八坂書房)

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