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帆足万里(安永七-嘉永五)

万里とは号ではなく本名。普通は俗世間に対して「俺は俗物とは違うぞ」という意味で雅号を名乗るものだが、この人は「思想家は現実社会と格闘してナンボ」 という信条だったから基本的に本名を使っていたのだ。

万里は豊後国の日出藩に生まれた。帆足家の祖先は清少納言の実家の清原氏と称するが、当時は二万石の木下家の三百石そこらの家老職である。次男坊の気楽さで学に志し、 若いうちに各地へ遊学した。
近世日本は複雑な地形に封建領主が割拠し、津々浦々に多様な文化が育っていた。さらに参勤交代や寺社詣りで交通が整備され、 長い平和のうちに相互交流が進みさらに新しい文化が生まれる。万里の思想もそんな中で形成されていったのだ。
近所の長崎では三浦梅園が特異な形而上学を構築していて、 門人の脇愚山が日出にいた。久留米では藩主をはじめとして数学が盛んだった。福岡では徂徠学派の亀井南冥に多くを教わり、同門の広瀬淡窓とは生涯の親友となった。 さらに大坂へ足を伸ばし中井竹山たちの自由主義的朱子学を吸収した。日出に帰ると私塾を開き、実用本位の教育を行った。

それまでは雑学扱いされていた天文・地理・数学などをひとつに体系化した、「実学」の概念を創出したのが万里の業績である。もちろん蘭学にも興味を持ち、 四十過ぎて「訳鍵」だけを頼りに独学を始め、幕府の蕃書調所ですら蔵書が16冊しかなかったころに13冊の学術書を読破、「窮理通」という百科全書を編纂した。 弟子の日野鼎斎たちを長崎に派遣し、シーボルトに西洋医学を教えてもらった。
彼は列強侵略に対抗して軍備改革を訴えた。しかし西洋文明の暴力性は批判し東洋道徳の裏打ちが必要だと主張した。 つまり佐久間象山と同じことを九州の片田舎で一足先に実行していたのが万里なのだった。

兄が死ぬと藩主の要請で万里は日出藩家老に就任した。著書の中では「日本家屋は火に弱いから石とレンガで高層ビル街を造ろう」とかでかいことを書いているのだが、 しょせん二万石の小藩ではチマチマした綱紀粛正・質素倹約くらいしかできない。結局すぐに辞任してまた学問に専念した。

七十過ぎていきなり脱藩事件を起こしたり、水戸斉昭に海防策を献上しようとしたり人騒がせは終生続いた。 ペリーが来ていよいよ出番だというのに嘉永五年に没。 広瀬淡窓は「海西の大老を失う。嗚呼悲しいかな」と嘆いた。
彼の弟子には日野のほかに福沢諭吉の父や恩師、滝廉太郎の祖父などがいる。九州ひいては日本の文明開化にひそかな貢献を果たした人物である。

※参考文献
帆足図南次「帆足万里」(1966.吉川弘文館人物叢書)
横松宗「福沢諭吉・中津からの出発」(1991.朝日選書)

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