てんかい随風?
坊主にしては政治力が凄すぎるというので、正体は明智光秀だとかいう説が出たりする人。しかしついこの前までは日本の半分くらい本願寺支配だったような時代なので、 そんなに不思議がることもないだろう。
公式の伝記だと蘆名氏の一族で、奥州高田で天文五年に生まれる。比叡山で天台宗を学び、さらに念仏・禅・律といろいろかじって神仏習合にまで及んだ。 信長の焼き討ちのあと関東に戻り、、喜多院に住していた時に転封されてきた家康と知り合う。
家康が天下をとった後、天海は比叡山の復興を任され南光坊に拠って指揮をとった。 ここから南光坊天海と呼ばれるようになる。さらに家康の死後久能山東照宮に祀り、やがて日光に移すまでを仕切った。最初は東照大明神と名付けるはずだったが、天海が 「豊国大明神に幸ありや(こないだ俺らが滅ぼしたばかりやん)」といったので東照大権現になったのだそうな。
寛永二年には東の叡山として上野に寛永寺を建立した。 天海のせいで日本仏教は幕府の下部機関となって堕落したというのが定説だが、信徒数だけで言えば史上最大の繁栄であるにはちがいない。
天海は寛永二十年に入寂した。正体が光秀なら享年115くらいになるが、山田風太郎の『人間臨終図巻』ではいちおう公式の107歳(満年齢)説をとっている。それでも最後から4番目で、 これより長生きしたのは平櫛田中・大西良慶・泉重千代だけだ。諡号は慈眼大師。
幕末二十七42-44
A・朝倉治彦・三浦一郎編「世界人物逸話大辞典」(1996.角川書店)・山田風太郎「人間臨終図巻V」(2001.徳間文庫)
徳川家康/徳川家光

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